1921年頃の作品です。
この作品は、ただの自己犠牲物語ではありません。
キリスト教を批判しつつ、仏教との融合を試みています。
あらすじ
よだかは、容姿が醜い鳥です。そのため、かわせみやハチドリの兄にも関わらず、鳥の仲間からいつも嫌われています。
ある日、鷹から「たか」の名前を使うな。「市蔵」にしろ。と改名を迫られます。
よだかが空を飛び回っていると、自分が生きるために、たくさんの虫の命を奪っていることに嫌悪してしまいます。
よだかは生きることに絶望し、弟のかわせみに別れを告げます。
太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願うと、太陽に「お前は夜の鳥だから星に頼んでごらん」と言われます。
よだかは星々にその願いを叶えてもらおうとしますが、相手にしてくれません。
よだかは力を落としますが、空に飛び上がり
いつしか青白く燃え上がる「よだかの星」となりました。
全文はこちらからどうぞ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473_42318.html.
章立て表
対称構造をとってます。
最重要部分は赤の部分です。
3の鷹が来る場面では鷹が俺のくちばしや爪と比べろ。と言ってます。
つまり、何かと比較しろとの作者からのヒントです。
キリスト教批判
鷹が家に来る
章立て表の赤い部分を比較すると、よだかが物語で最初に会う鳥が鷹で最後がワシ座であることが分かります。また、鷹とワシで生物学的にあまり違いはないこと。ワシは聖書で重要な鳥であること。以上のことから、おそらく鷹はキリスト教の暗喩です。
鷹はよだかと名前や鳴き声が似てるから嫌っている。名前を変えろ、変えなかったら殺す。
これはキリスト教の異端や強制改宗を暗に示していると思われます。
よだかは自分の存在が無駄なものだと悟って、自分を犠牲にすることで、他人の幸福を実現するとともに自らの救済も望んでいます。
何となくは分かりますが、自分の中ではいささか違和感でした。しかし、よだかを異端者としてみると、鷹に殺される(=屈辱を受ける)ならせめて自分で死のうとするのも納得です。
よだかがいろんな所へ行く
出てくる星座が気になったので、調べてみました。
すると星座になった理由は、全部神のせいだと判明しました。
神そのものが変化したわし座に至っては、身分がなくちゃならん、金も必要と言ってきます。
神のくせに何て傲慢な奴なんだろうと思います。
本気になって神様にお願いすれば、人間の罪を消し去って助けて下さる。それをダシに身分や金を要求する。そんなキリスト教の問題を暗に批判しているようにも聞こえます。
キリスト教と仏教のドッキング
その一方で二つの宗教をうまく融合しようともしています。
みだりに生き物を殺すなという不殺生戒。
イエスの自己犠牲に、神の力に頼らずとも、東西南北ぐるぐる回っていたよだかが輪の中から外れたこと。つまり、往生や解脱。
やや仏教寄りなのは否めませんが、神頼みではなく、自己による行動を重要視しているのは間違いないですね。
よだかから見る作者の主張
ヨタカ日本野鳥の会 京都支部 (wbsj-kyoto.net)
よだかとは、ヨタカ科の鳥で、確かに容姿が良いとは思いませんが、異常なまでに嫌われています。
なぜ、ここまで嫌われなきゃいけないんでしょうか。
それはよだかが、夜鷹の意味ももっているからだと思います。
そば一杯の値段で性サービスを提供した「夜鷹」とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)
夜鷹というのは、江戸時代に出没した下級遊女のことで、今で言うところの立ちんぼです。
梅毒のせいか、鼻や耳も削げ落ちている人もいたと言われています。
だから、あまり美しい鳥でもないひばりが面汚しだとか、言うのです。
以上のことをまとめると、
神の力に頼らずに自己犠牲によって、救済されたこと。
そして、醜いとされてきたよだかが美しい星になったこと。
この2点から推測するに、
「身分や生まれ、信じる宗教に関係なく、あらゆる生き物は苦しみから救われる」
これが恐らく作者の主張です。
仏教とキリスト教の良いとこどりをして、新しい救いの物語を描こうとしたのでしょう。
よだかの星
よだかの星のモデルは様々な考察がされていますが、有力な説はチコの星だとされています。
しかし、物語の意味合い的な元ネタはキリスト教のベツレヘムの星だと思います。
キリストの誕生を示したと言われているこの星に対して、賢治が唱えたよだかの星。
それは、醜いと周囲からバカにされたよだかが、美しく輝く星になったように、
あらゆる生き物は苦しみから救われ、立派な存在になれるという希望の象徴です。
だから、いまでも燃えているのです。
追記
自分は読めていませんでしたが、よだかのキャラ造形はこの方の解説が深掘りできています。
よだかの死は有限を無限に反転させるための儀式と聞くと、
まるでイエスの自己犠牲や、解脱した仏みたいですね。
肉体は消えても、その存在はいつまでも消えずに生き続けるという。
宮沢賢治もそのうちの一人ですね。